「死にたいなんて言うな」


そういうことを言う輩がこの世の中にはゴマンといる。けれど、物心着いた頃から私は漠然と死にたかった。死にたいなんて口にしたことは無かったけれど、心のどこかにぽっかりとできた穴だとか、ゲームや音楽でも埋めきれない寂寥感みたいなものがずっと居座って離れなかった。

 

 

 

 


一度だけ、変なことを言われたことがある。

その当時私は高校生で、大学への進学も決まり残花を適当に散らすような生活を送っていた。やけに鮮明に覚えているその日は、図書室の隣にあるカウンセリングルームが開いていた日のこと。図書室に本を返しに行こうとしていた時、カウンセリングの先生に声をかけられたことがきっかけだった。なんでも最近は人が来なくて寂しいからちょっと話し相手になってくれないかという。美味しいお茶請けの菓子を用意すると言われて、しばらく悩んだ私は現金にそのカウンセリングルームに立ち入った。


「なんでも話してごらん。私なんかでよければ答えよう」


人外じみて整った顔立ちをしたカウンセリングの先生は、私の前にミルクティーを置いてそう言った。温厚そうに見える瞳の奥には理知的で鋭利な光が煌めいていて、なんとなく私は尋ねたのだ。


「死にたいと思うことは、悪いことなんですか?」


今思えは、そうやって人に聞いたのはあの時が最初で最後だった。カウンセリングの先生は私の言葉に一瞬だけきょとんというような目をして、その後すぐに楽しそうに笑った。不思議と、馬鹿にするような笑い方じゃなかった。


「久しぶりにいい質問を聞いたよ」


そんな君には私の大好きなぬれおかきを分けてあげようと、カウンセリングの先生はぬれおかきが山のように盛られた皿を私のミルクティーの横に置いた。飲み物は洋なのに食べ物は和だ。食べ合わせは気にしないタイプなので有難く頂こうと思ったけれど、その時は同時にちゃらんぽらんな組み合わせだとも思った気がする。


「で、質問に答えようか。率直に言おう。死にたいと思うことは悪いことではない。むしろ、人間としては正常な考え方だ」


「人間としては、正常な考え……」


鸚鵡のように繰り返すと先生はゆるりと目を細めてこくんと頷いた。私の反応をどこか楽しんでいるようにも見える。


「人間ってのは文明の発達と共に自己について考える時間を多く取るようになった。それは、一般的に思春期とも呼ばれるものだ。」


狩りをしていた時代と比べると、生命の危機に晒されることも少なくなった。寝食に困るなんてことも減った。物事が効率化されるにつれて出来た時間を使って人間は己と己を取りまく世界について考えるようになったのだという。


「君のように歳若く、多感な時期にこそ感じられることが多くある。見える世界が広がったことにより、己の矮小さを認識し大体の人間が思うんだよ。『どうして自分は生きているのだろう』とね」


先生の言い方はおおよそ現役の高校生に話すような喋り方ではなかったと思うけれど、私は妙に素直な気持ちでそれを受け入れていた。
そっか。死にたいと思うことは悪いことじゃないのか。どこかすとんと落ちるようなものがあった。しかし、先生は「でも」と言葉を続ける。


「私は人生のうちに一度でも死にたいと思わないのは病気だと思っているが、ずっと死にたいと思い続けることも病気だと思っている」


一瞬、何を言われたか分からなかった。ぽかんと阿呆面をした私のことは見ないで、先生はじっとミルクティーが描く幾何学的な模様を見ていた。


「今の社会において大抵の希死念慮っていうのは、他者と自分の間にある隔たりを埋めるためのひとつの手段に過ぎないと私は思っている。人と自分は違う、理解されないことは怖い。でも、具体的な打開策がないから死にたいと願うのさ」


先生はぬれおかきをひとつ食べた。んーと無邪気な子供のように笑うと、再び私を真剣な瞳で見る。


「だから、歳を取るにつれてそれは無くなっていくものなんだ。大人になれば、社会に揉まれて余計なことを考える時間が無くなる。死にたいなんて思う暇すらないからね」


最も、最近の世の中は情報化が進んだことでそんな悩みすら抱かない危うい子供たちが蔓延っているけれど。優雅な所作でミルクティーに口をつけてそう言う。私はふと思いついた質問を口にした。


「じゃあ、ずっと死にたいと思うことは駄目なんですか?」


「駄目って訳じゃないさ。昨今の世の中は多様性を許容する風習が広まってきたからそういう人だっている。しかし、長い間人間観察を趣味としてきた私から言わせてみれば」


先生は頬杖をついてにこりと笑った。完璧な過ぎる笑みだったのを脳裏に鮮明に覚えている。


「ずっと死にたいと思う人は、天性の死にたがりか大切な何かを知らない人だけさ」


「……先生って、何歳なんですか?」


五限の予鈴がなった。最後の最後に放った私の素っ頓狂な質問に、先生はくすくすと楽しそうに喉奥で笑って言った。


「さぁね。少なくとも君たちよりはずっと長生きしているよ」


結局、私がミルクティーとぬれおかきに口をつけることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


祖父が癌で死んだという報せを聞いたのは、つい先日のことだった。祖父母の家にはよく遊びに行ったし、幼い頃は祖父に良くしてもらった、気がする。皺だらけの手で頭を撫でられるのは少し怖かったけれど、笑った時にできる目尻の皺は好きだと幼いながらに思っていた。

祖父が息を引き取ってから3日目の昼。私は病院の受付前椅子に座っていた。親族だけの慎ましい葬儀を終えた祖父はこれから、灰となって消えるのだろう。ほんの少しの遺品と、正絹に包まれた木箱だけが彼の生きた証として残るのだ。ぼんやりとそんなことを考えながら、私の口からは小さな吐息のような言葉が零れ落ちていた。


「いいなぁ……」


もう何も考えなくていい。明日の生活のこととか、形のない何かに追い立てられる気持ちとかそういったものを全て忘れて安らかに眠れる。それは何といいことだろうか。そう思った時、右のこめかみに激痛が走った。
がつん、と少しの硬度と質量がある大きなものがぶつけられたのだ。一気に騒がしくなる受付前と、当人なのに何が起きたのか分からずに困惑する私。油をさし忘れたブリキのようなぎこちなさで右を見れば、1人の青年がそこに立っていた。いや、座っていた。

車椅子に座り、病衣を纏っている様子を見るに恐らくここの入院患者なのだろう。年齢はは私と同じくらいか、と思わせる見た目と小麦色の肌。所謂イケメンの部類ではいるであろう端正な顔立ちの彼の瞳には憤怒がありありと浮かんでいた。

私は、彼に怒られている。

しかし、私は彼のことを知らなかった。祖父の見舞いに何度かこの病院を訪れてはいるが、見たことはなかった。高校のカウンセリングの先生と同じくらい、綺麗な顔立ちだ。一度見たら忘れないだろう。
呆然としている私の態度が気に食わなかったのか、彼は強く拳を握ると見た目とは相反する高めの声で私に叫んだ。

 


「死にたいなんて言うなや!!」

 


それだけ言って、彼は物凄い勢いで車椅子を滑らせて消えてしまった。嵐が過ぎ去ったあとで、ざわざわと喧騒が病院内を伝播する。未だに状況に脳みそが追いつかずにぽかんとしていると、院内スタッフが駆け寄ってきて大丈夫かと聞かれた。


「だい、じょうぶです」


私は彼が私に投げつけたであろうものを拾い上げた。膨らんだ茶封筒の中身はよくわからないが、金ではない。ちょっと残念だなと冗談交じりに思って、私はそれを持って立ち上がると院内スタッフの人に尋ねた。


「すみません。あの人の病室がどこか、教えて貰えますか?」


院内スタッフは私に怒られるとでも思っていたのか


「え?はい……」


と素直に教えてくれた。私は軽く会釈をすると茶封筒を持ったまま受付を出ていく。エレベーターに乗り込んで、彼の病室の階のボタンを押した。若干の重力を感じながら考える。死にたいなんて言うなとあの青年は言った。しかし私はそんなことを言った覚えはない。ただ、羨ましいと呟いただけだ。あの呟きが聞こえていたのならそれはそれですごいと思うが、彼は私が死にたいということを見抜いたのだ。妙な胸の高鳴りを抱きながらエレベーターは昇る。

たどり着いたそこは、病院の中でも立ち入りを制限される末期患者のための区間だった。ただ、私の祖父のような癌の末期患者ではない。『治療法の確立されていない病気を患っている人間が来る病棟』だと言う。この病院の中を少し歩いたことがあるからこそ私には分かる、この階はどの病棟よりも死の匂いが強い。

私は足を進めて、一番端の個室にやってきた。ノックもせずに入る。白い病室の中で、全てが生きることを辞めようとしている箱庭の中で、唯一生命力に溢れた存在。彼は私の姿を認めるときゅっと眉を寄せた。


「なんや?俺を笑いに来たんか」


二回目だが、やはり高い声と棘のある物言いを気にせずに私は彼に近づいていく。彼は私を見つめてますます訳が分からないといったように首を振った。


「誰か知らんけど、俺はさっきのことを謝るつもりはないで。それを持ってきてくれたことには感謝するけど」


「ねぇ、あなた」


私は彼の言葉を遮って話しかけた。ぴたりと、水面に波紋が浮かぶよりもはやく彼は黙る。警戒するように私を睨みつけてくる彼に、私は緩く微笑んでこう言った。

 

「私の代わりに生きるつもりはない?」

 

 

 

 

 

「EPって分かる?」


私の問いに、彼は信じられないものを見るような目で私を見つめてきた。さっきまでの威勢の良い態度とは違う様子を見るに、そこら辺に関しては無知ではないのだろうことが窺えた。

EPとはExchange Painsと呼ばれる比較的新しい医療技術の事だ。何十年か前にアメリカの有名な大学病院で研究された技術で、現代の医療界隈の中でも諸刃の剣と呼ばれているらしい。exchange(交換する)pains(痛み)と直訳される通り、この技術は被術者同士の病態を交換させるものである。詳しい術式などは企業秘密だとかなんだとかで公開されていないが、陳腐なノンフィクションドキュメンタリーなどで取り上げられることが多くその分世間の認知度も高い。施術を受けた健全者と罹患者が施術前と施術後で健康状態が全く逆になるのだ。

これが諸刃の剣と言われているのは、その特異性に拠る所である。例えばの話、病に侵された子供をどうしても救いたい親が近くの子供を攫ってきて、EPを受けさせると言うことがこの技術が現れた当初は多かったのだという。人間の欲は尽きぬものであるし、子供を病の淵から救ってやりたいと願う親の気持ちは正しいものだ。だからといって、知らない人間を殺していいかと言われればそれは違う。


「EPには高い施術費が掛かる。でもそこら辺の工面は私がなんとかしてあげるよ」


私の言葉に彼はじろじろと不躾に私の顔を見回した。大方、嘘でもつかれていると思っているのだろう。


「EPを受けるための審査はこれから一緒に取り組んでもらいたいかな。審査っていうのは」


「互いの同意の上、深い相互理解があるかの検査。やろ?」


私の言葉を遮るようにそう言った彼。なんだ、分かってるじゃない。EPは互いの合意の上であることを確認するため、深い相互理解をしているかという検査をされる。筆記ではなく、出された質問に対して解答し、その脳波を測ることで深い相互理解がなされているかを見るのだ。茶封筒を手渡すと彼はそれを受け取って、しっかりと意思の籠った瞳で私を見据えた。


「聞きたいことがある。あんたがそこまでして、俺とEPを受けようと思う理由は?」


まぁ、そうなるよね。見ず知らずの、なんならさっき啖呵をきった人間に突然一緒にEPを受けないかと言われても不信感を抱くか冗談にしか聞こえないだろう。冗談だとしたらとてつもなくタチの悪い、ついていけない方の冗談。
私は近くにあったパイプ椅子を立ててそこに座る。


「あなた、めちゃくちゃ生きたいって思ってるでしょ?」


じっと私の真意を確かめようとしているかのように彼は私から視線を外さない。その瞳は、病に侵されているものとは到底思えないような鮮烈な生の輝きを持っていた。

「死にたい」と口にする人は数多くいる。その大抵の人間が出任せばかりで死ぬ勇気すらない者達ばかりだ。しかし、「生きたい」と口にするものは少ない。こんなにも強く「生きたい」と願う瞳を、私は初めて見た。


「私が死にたいと思うのをあなたが見抜いたように、あなたが生きたがっていると私は感じるの。少なくとも、私が今まで見てきた誰よりもね」


だから、あなたになら私の命をあげてもいいと思った。残りの数十年私がずっと死にたいと思いながら無駄に過ごすより、きっとこの人の方が有意義で、満ち足りた人生を送ってくれるという確信めいたものがあるから。
彼は私のことを射抜くような、グラグラと煮えたぎるように、生きるということに対する欲求で満ちた瞳でいたけれどふっと小さく笑う。


「ほんまの死にたがりなんやな、あんた」


上辺だけの死にたいではなく、心の奥底からの欲求として死にたいと私が思っていることに気づいたのか、彼は呆れたようにため息をついて居住まいを正す。


「わかった。お前とEPを受ける」


俺は、まだ生きていたい。言葉なんてなくても彼の心象はありありと伝わってきた。私は小さく微笑んで手を差し出す。交渉成立だ。


「私の名前は遠野いちご。あなたは?」


彼は私の手を取った。そこに躊躇いはなかった。


「片山廉。短い間になると思うけどよろしくな。いちご」

 

これは、私と彼。廉が願いを叶えるための物語だ。

 

 

 


EPを受けるには相互理解が大前提になる。どういった質問がくるのかてんで検討がつかないけれど、基本情報は頭に入れておくべきだろう。いつどこで生まれたのか、どんな家族構成で、どう言った職業についているのか。一通り話すと、廉は少し驚いたように目を丸くしていた。


「驚いたわ、俺ら同い年やったんやな」


長女なのも驚きだと言われた。昔からマイペースで、少し童顔っぽく見えるせいかなと思った。


「廉は?家族構成とか……」


「おらんで」


私の言葉を遮るように彼はそう言った。おらんで、とは一体。廉はふっと目を細めて笑った。自嘲するような、過ぎたことを諦めてしまったような笑みに、何となくその表情は似合わないと思った。


「病気を発症した年に、俺の両親は俺を国に売ったんや」


俺の病気は世界に三十人もいない病気で、発症したら最後、足先から体が壊死して最終的には死んでしまうのだ、と彼は言った。


「俺は、三十までは生きられんって言われとる」


穏やかだった病気の進行が最近少しずつ早くなり、3ヶ月前に足が動かなくなったそうだ。


「いちごは25歳って言ったよな」


廉の言葉に私は頷いた。両親からも仕事はどうだとかそろそろ身を固めないのかとか素敵な男性はいないのかと尋ねられるけれど、近年は晩婚化が進んでいるし私のことを好きになるなんて余程の変わり者だ。廉はストレッチャーに深く凭れて目を閉じる。


「最近は一年持つかも怪しいって言われとる」


このままの進行速度で病気が廉の体を蝕めば、廉がこの世界に存在していられるのは1年弱なのだという。


「それは……大変だね」


言ったあとで、随分と味気ない返事をしてしまったと思う。廉は瞳を開くと、私を見てふっと微笑んだ。単純に、綺麗だと思った。


「いちごは余計な同情をせんのやな。助かるわ」


「……同情する余地もないしね」


痛みは、その人だけのものだ。両手に余るほど同情をしてもその痛みを背負ってあげることはできない。こういう人からすれば、中途半端な優しさは一番嫌いなものだろう。廉は楽しそうにくすくすと笑う。


「変なやつ、自分にも他人にも興味なしか」


死にたがりやからかな、なんて言って廉は再び目を閉じた。しばらく黙っているとすぅすぅと小さな寝息が聞こえてくる。


「……寝落ち……」


寝顔がとんでもなく穏やかだったから一瞬そのまま息を引き取ってしまったんじゃないかと不安になったけれど、規則正しく上下する胸元を見るに寝ているだけだ。

私はずり落ちた布団を廉の肩まで掛けてあげると、連絡先と今日は帰ること、また会いに来ることをメモ用紙にしたためてサイドテーブルに置いた。彼とはもう約束をしたのだ。彼じゃなく私が死ぬのだから、EPを受けるその日までみすみす死んでもらっては困る。

私は静かにパイプ椅子を片付けて病室を出た。これからやらなければならないことがたくさんある。そのどれもが死ぬための準備ーーー正確にはEPを受けるための下準備になるのだけれど、不思議と私の心は晴れやかだった。思わずスキップしそうになって、廊下を歩く看護師さんに怒られたのは言うまでもない。

 

 

 

「やっほ」


次の日の夕方、廉に会いに行くと廉は横長の紙に変わった機械で穴を開けていた。そう言えば廉はオルゴール職人だと言っていたっけ。廉は私の姿を認めると軽く眉を顰める。私がこんな時間に、しかもコンビニの袋をさげてやってきたことが不思議なんだろう。


「いちご。仕事はええの?」


ゲーム会社に勤めてるって言ってたよな?と廉は首を傾げた。昔から何に関しても無気力だった私だけれど、仕事まで適当に選ぶことは出来なかったみたいで、大学もゲーム科があるところを選んだし卒業後は大企業とまではいかずともそこそこ名の知れたゲーム会社の開発チームに入った。私は廉の横にパイプ椅子を立てるとごそごそとコンビニ袋の中から肉まんを取り出す。


「今日はね、ちょっと早く上がってもいいよって言われたから来たの」


一階の受付を左に行ったすぐのところにあるコンビニで肉まんを売り始めていたのだ。ちょっと小腹も空いていたし、別に食べていいだろう。私が食べようとすると、廉は手を止めて真剣な瞳でこちらを見ている。いや、正確には私じゃなく手元の肉まんを見ている。


「なに?肉まん気になるの?」


私の言葉に、廉はこくんと頷いた。


「久しぶりに、肉まん見た」


「なんで?」


肉まんなんて冬の風物詩じゃない。廉はじろりと恨めしげに私を睨んで、不貞腐れた子供のようにふいと顔を逸らした。


「最近は食事制限もあって食べられんのや。俺だって肉まんくらい食ったことあるし」


なるほど、食事制限されるんだ。祖父はほとんど点滴ばかりで食事を食べているのを見なかった。ここの病院食が美味しいのか知らないけれど、廉の様子を見るにあまり美味しいわけではなさそうだ。

私は少し悩んで食べようと思っていた肉まんを半分に割ると、具が少し多い方の肉まんを廉に差し出した。


「……なんや?」


「やさしいいちごちゃんが廉くんに半分分けてあげようと思って」


ふざけてそう言うと、廉は肉まんをじっと見つめている。食べたい気持ちと食事制限とでどうしようか迷っているのだろう。


「食べたいなら食べたらいいと思うよ」


ちょっとぐらい食べても怒られないでしょ。そこまでコレステロール値とか徹底的に管理されているなら別だけれど。廉は小さくため息を吐き出して私の手から肉まんを受け取った。やっぱり廉も誘惑には勝てなかったみたいだ。私は少し笑って肉まんを頬張る。


「ん、おいし」


ふわりと漂う湯気と、噛む度にじゅわっと出てくる肉汁に思わず口元が綻ぶ。廉を見ると、彼はちまちまと、しかし美味しそうに肉まんを食べていた。


「おいしい?」


なんとはなしに尋ねると廉はこくこくと嬉しそうに頷く。同い年なはずなのにまるで子供みたい。肉まんを食べ終えると廉はふぅと小さく一息ついた。


「肉まんって、こんなに美味かったんや……」


ずっと忘れとった。と小さく笑う廉。その笑顔が本当に嬉しそうで、私も小さく笑い返す。


「ところで、廉は何してたの?」


彼の机の上を見ると、方眼紙のように縦横線が引かれた紙にまだらに穴が空いていた。オルゴールはあまり見たことは無いけれど、恐らくそれなのだろう。廉はその紙と横に置いてあるピンセットのような器具を手に取って「そうやで」と言う。


「これは穴あけパンチ。これと手巻きオルゴールを使えば即席でオルゴール作れんねん」


触ってみる?と尋ねられて私はいいの?と逆に問う。これは歩けなくなった廉が選んだ仕事道具だなのに。私が雑に扱って、壊すという発想はないのだろうか。手に取るのを躊躇っている私に、廉は察したかのように小さく笑った。


「別にええよ。紙自体は消耗品やし、お前にぶん投げたものやから」


廉の言葉に、私は廉をじっと見る。そっか、廉が私に投げたのはこれの束だったんだ。私は紙を手に取ってまじまじと見た。紙の一番端の部分にはCからCまでが書いてある。これはあれだ、ドイツ語の音階だ。高校で少しだけ軽音部の手伝いをしたから分かる。ちゃんとシャープもフラットも書いてあるのでマス目が小さい。紙一枚はそんなに横長ではないようだけれど、横を見ると一枚一枚貼り付けているようだった。ここに穴を開けていくと思うと気の遠くなるような作業だと思った。まるで内職ね、と思いながら廉に返す。廉は丁寧にそれを受け取ると、ついと視線をクローゼットに向けた。


「あそこから、手巻きオルゴール取ってもらってええ?」


手巻きオルゴールってなに?そう思いながらも私は廉に言われた通りに席を立った。クローゼットの中を開くと、廉の私服らしきものといくつかのダンボールと小さな木箱が入っていた。木箱の中。と廉に付け足されてそれを開くと、手乗りサイズの機械が入っている。これが手巻きオルゴール?


「はい。これで合ってる?」


私が廉に手渡すと、廉は頷いてそれを手に取った。横長の紙の一番端を機械にセットすると、横に戻ってきた私に廉が取手を指さす。


「これ、回して」


言われた通りに、取手を回す。手回し発電機みたい、と思いながらそれを見ていると、少しずつ紙が先に進んで音楽が流れ始めた。痛すぎない金属音が奏でるそれに、ちょっとだけ驚いた私に廉が笑う。


「すごいやろ。手間暇はすごくかかるけどオルゴールってめっちゃええもんなんやで」


私はそうだね。とだけ言ってひたすら取手を回し続けた。小さな音が病室を満たしていた。

 

 

 

 

「いちごって暇人なん?」


私の顔を見て廉は呆れたような表情を浮かべた。相変わらず手元は穴あけパンチで紙にちまちまと穴を開けている。私はパイプ椅子を引っ張り出しながら違うよ、と言った。


「有給使ってきただけ」


今日は廉が寝落ちしてもいいように仕事道具も持ってきたし。とノートパコソンを見せると廉は笑う。私が適当なダメ人間でも廉はしっかりと働くところを評価しているみたいだった。変なところで律儀な人だな、と思う。


「逆に聞きたいんだけど、どうして廉は仕事するの?」


働かなくても一定の金額を国から補助してもらえるのに。私の言葉に廉の瞳が初対面の時に見せた、あの怒りを映し出した気がした。

仕事をして、廉のもとを訪れる間に私は彼の病気について調べた。言っていた通り、彼の病気は比較的最近現れたものだ。生まれてからすぐに発症する例は少なく、十代前半の成長ホルモンが多く出る時に発症する場合が多いらしい。理屈としては、体を大きくするホルモンと一緒に体を破壊するホルモンが分泌され、成長していくと同時に体が壊れていく仕組みになっているのだという。基本的な場合は足先からだが、中には特殊事例として腕から動かなくなってしまう人もいたらしい。

そして、そういった新しい治療法が確立されていない病気は、患者であると同時に実験体だ。彼らは国から働かなくても済むだけの入院費やお金を貰える。その代わりにたくさんの薬物投与や検査などに耐え忍ばなければならない。多くの贅沢は出来ないが働かずしてお金が手に入るなら、人によってはそれでもいいと言うだろう。


「インフルエンザって罹ったことある?」


唐突すぎる廉の問いに、私はちょっとたじろぎながら頷く。私自身体調管理が適当なことが多いので三年に一回くらい罹っている気がする。廉は穴あけをしている手を止めて私を見る。


「普通の風もそうやけど、インフルエンザとかは特に自覚してから一気に体調が悪くならん?」


確かに。と私は思う。何となく体調が悪くてもしかしたらインフルエンザかな?と思って病院に行くと案の定インフルエンザで、しかも見計らったかのように体調不良に拍車がかかる。よくある話だと思う。私は廉が言いたいことを何となく察して尋ねた。


「病は気からってこと?」


「そうや」


ふふん。と笑う廉。その表情は普通の病人にはないような傲岸不遜さがあった。


「俺の体は確かに病に蝕まれてる。でも、心まで病に奪われてたまるか」


私は何となく、彼が生きる活力に溢れている理由に気づけたような気がした。彼は諦めていないのだ。これから治療法の確立していない病に殺されるかもしれないというのに全てを投げ捨てずに必死にしがみついている。その泥臭さは傍から見れば滑稽かもしれないけれど。


「私は、廉のそういう根性論嫌いじゃないよ」


手が届かないから諦めるのではなく、手が届かなくても諦めない。それは、彼が持つ命の煌めきそのものだ。廉は褒めてもなんも出んで。と変なものを見るような目で私を見ていた。何となく曖昧に笑うと、廉が一気に顔を顰める。あれ?また何か逆鱗に触れた?と思った時携帯がピコンと音を立てた。


「ちょっと待ってね」


廉に一度制止を入れてから携帯を確認すると、同じ開発チームの人からの連絡だった。パソコンにシステムファイルを送ったから至急動作確認とデバックをして欲しいと言う。


「あー、ごめん。仕事が入ったから帰るね」


さすがに廉の前で急に仕事を始めるのは失礼だろう。もうちょっと話がしたかったなと心のうちに思いながら席を立とうとした時、今度は廉の制止の声が掛かる。


「ここで出来んの?俺が寝落ちしたら出来るようにって、パソコン持ってきとったやん」


しっかりと私と服の裾を掴んだ廉の目は真剣だ。私は振り返ると小さくため息をつく。


「言ったけど、実際にやるかどうかは別じゃん」


「変なとこで遠慮せんでええねん。いちごは俺の仕事風景見られるのに俺はいちごの仕事風景見れんのは不公平やろ」


何をどう捉えたら不公平になるのかちょっと分からないけれど、廉はどうしても私が仕事をしている様子が見たいようだ。これは返してもらえそうにないな。帰ろうとしていた踵を返して再びパイプ椅子に戻り、廉の作業机の端を拝借する。


「言っておくけど、そんなに面白い風景じゃないからね」


一応保険をかけてからパソコンを起動する。ノートパコソンだがCPUの処理速度の高いものを使っているのですぐに起動した。メールを見ると一番上の欄に同僚からの添付ファイル付きのメールが来ていた。

ファイルを開いて、プログラムのHTMLを見る。見た感じはどこも間違いは無さそうだけれど、ゲーミングファイルを開くと確かに動かない。こういうのは別のデバックチームに任せて欲しいとも思うがまぁ仕方ないか。


「うわ……めちゃくちゃ細かいな」


何してんの?と廉が興味津々に覗き込んでくる。私はマウスでかりかりとスクロールしながらんー。と呟く。


「デバックって言って、ゲームが動かない理由を調べてる」


システムを書いて、それでゲームを動かしてるからね。と私が言うと、廉がどこかへぇと味気ない返事をする。しかし、その瞳はプログラミング言語に釘付けられていて、好奇心が旺盛なのかな、と思った。


「凄いやん」


「そう?」


初めは大変だったけれど、言語を覚えたり慣れればなんとなく出来るようになる。廉はふるふると首を振った。


「だって、ここが一つでも違うとゲームは動かないんやろ?」


オルゴールも一緒。と言う廉は、私の顔を見て楽しそうに笑った。さっきのしかめっ面とは正反対の表情に少しだけ心臓が跳ねる。


「いちごも職人なんやな」


気分の変わりやすい人。なんて思いながらそんなことないよと言う。仕事をちゃんとやるのは当たり前のことだと思うけれど、それを素直に褒められるのはなんとなく悪い気がしなかった。

 

 

 

扉を開けると、部屋主の姿が見当たらなかった。


「……」


それと同時に、いつも使っているパイプ椅子も見当たらなかった。捨てられたのかと一瞬思ったけれど、彼がいつもいるストレッチャーベッドの横には椅子が置かれている。私がいつもパイプ椅子を置く場所に置かれたそれは、パイプ椅子の何倍も座り心地が良さそうだった。

というか廉は?私はきょろきょろと辺りを見回した。彼がいなかったことなんて初めてだ。車椅子がないのを見るにどこかへ行っているのかもしれない。とりあえず看護師さんに聞いてみようかなと私は部屋を出て階のナースステーションへ行った。


「すみません。539号室の人ってどこへ行ったか分かりますか?」


看護師さんに尋ねると、妙齢の看護師さんは少し悩んであぁ!と手を叩いた。


「片山さんなら中庭に行かれましたよ」


なんでも、紅葉を近くで見たいんですって。とくすくす穏やかに笑う看護師さんに私はありがとうございますと頭を下げて移動しようとした。


「ねぇ。いちごさん?で間違いないかしら」


突然名前を呼ばれて、私はちょっと驚きつつも頷く。昔からあまり表情が変わるタイプでは無いので多分驚いたとも思われていないかもしれない。看護師さんは「やっぱり!」と楽しそうに手を叩いた。何がやっぱりなんだろう。


「あの……」


「片山さんのご友人でしょう?よく片山さんからお話聞くのよ」


思ったよりも静かな方ねぇとおっとり話す看護師さん。友人。一体廉はどんな話をしたのだろうと思いつつもとにかく今は彼のところへ行きたかった。曖昧に笑って会釈をするとそそくさとエレベーターに乗り込み下へ降りた。

 

 

 


この病院は国立の、政府関係者などが入院をするような結構良い病院だ。中庭は広く、ランニングも出来る円形のコースを囲うように並木道になっている。短かった秋も通り過ぎて、マフラーなしに外を歩くのは少し寒い季節になってきた。こんな時期に外に出たいという廉の気が知れないな。なんて思いながら人の間を縫って歩く。

こそらへんの公園よりも広いせいか、探すのは一苦労しそうだ。五分ほどうろうろしていると、中庭の隅っこに主のいない車椅子がぽつんと置いてあった。
落ちた銀杏の葉や紅葉に彩られたそれはなかなかに哀愁を誘う出で立ちだ。そのすぐ横、枯葉と紅葉に埋まるようにして私の探し人は見つかった。


「こんなところで何してるの?」


死んではないし、多分寝てもいない。落ち葉のベッドに大の字に寝転んだ廉はワンピースタイプの病衣の上にカーディガンを着ているだけで、見ているこっちが寒くなるような格好だ。足が動かないからか、はたまた面倒くさいだけか靴も靴下も履いていない足は柳のように細かった。廉は私に気づいているのだろうが無視しているようだ。私の言葉にうんともすんとも言わずに寝転んだまま。


「風邪ひくよ」


体裁だけでも心配しておこうと声をかけても何一つ反応が返ってこない。この人本当に病人なの?私は一つため息を吐き出してがさりと廉の横に腰を下ろした。落ち葉のベッドはかさかさと揺れて、若干湿った土も相まってそんなに寝心地は良くなさそうだ。

ぐったりと体を地面の上に伸ばす廉の顔色は悪い。よく見ると薄く引いた唇は青白く、指先は小さく震えていた。いっそ病的に見えるその光景は、おそらく傍から見たら価値の高い名画のように見えるのだろう。外見が良い人の特権だな、と思いながら青白い頬に手を伸ばそうとしたその時、廉の瞳がぱちりと開いた。手を伸ばそうとした私に気づいたのか、ふっと小馬鹿にするように笑う。


「……なんや、酔狂やな。いちご」


廉はそう言って肘の力だけで上半身を起こして、私を見る。そして、あぁと何か思い出したように付け足した。


「病で長くもない俺にEPを持ちかける時点で酔狂やったわ」


「……何かあっ…?」


た、まで言おうとして私は気づく。彼の、廉の瞳の虹彩はこんなに淡かったっけ……?私の反応に廉は察したのか、くすくす笑って膝の上に手を置いた。


「足の次は色素なんやて」


俺はてっきり腕やと思っとったから拍子抜けやけどな。と何事もないかのように言う廉。夕日のせいでよく分からないけれど、彼の墨染のような黒髪も若干色が淡くなっていた。


「アニメのキャラみたいになるんだね、廉」


カッコイイじゃん。
私がそう言うと廉はそうやろ?と同調する。ガハハといつもと同じように笑う彼に、さほど落ち込んではいないようだと少しだけ安心する。夕陽も並木の向こうの地平線に消えかかっているのでとりあえず部屋に戻ろう、と私が立ち上がると廉が私に向かって両手を伸ばしてきた。まるで、さも当然だと言わんばかりに。


「……え、なに?」


「車椅子に乗せてーや」


自分で乗れんの。そう言う廉。私が来なかったらどうやって車椅子に乗って部屋に戻るつもりだったのと聞くとお前が来てくれる気がした、と彼は言った。


「会いたいって思った時に大体お前は来てくれるからな。今日は来てくれるってわかってたんやで、俺には」


得意げに話す彼に私はため息を吐き出して両手を彼の脇に突っ込んで持ち上げた。軽かった。おそらくこの歳の男性なら廉の十キロ以上は重いと思う。そうは言っても女の私には結構な重労働だ。何とか持ち上げて車椅子に載せると、「ありがと」と廉は素直に言った。からからと両手を動かして病院の方を目指し始めた廉に、私は後ろから取手を掴む。


「私が連れて行ってあげるよ」


保険の勉強で車椅子に乗ったことがあるけれど、なかなかに大変だったことを思い出す。からからと引くと廉は私のことを一瞥して軽く頭を下げた。間接照明のつき始めた受付は日中と比べると驚くほど静かだ。私は廉を連れて病室まで戻ると、そこで新調された椅子のことを思い出した。


「あのさ、これなに?」


使っていたパイプ椅子に愛着があった訳ではないけれど、上位互換の、それもちょっと座り心地が良さそうなものになっていたら気になる。廉はほぼ倒れ込むようにして車椅子からベッドへ移動すると私の指さしたそれを見て「あぁ」と呟いた。


「パイプ椅子の音がキィキィやかましかったから新しいの買った。それ使ってもええよ」


どうせ使うのもいちごだけやから。そう言って深くベッドに凭れ掛かる廉。外にいた時と比べると若干顔色は良くなってはいても相変わらず体調は悪そうだ。


「薬とかないの?」


椅子に座ってそれとはなしに尋ねる。案の定椅子はふわふわで座り心地が良かった。これなら何時間でも座っていられそうだ。そう思うと同時に安物では無いのだろうと思う。値段は知らないけれどただパイプ椅子の音がうるさいだけでこんなにいいものは買わないだろう。なんだかくすぐったい気分だ。体力も限界なのか、廉は私を見て薄く笑った。


「なぁ、いちご」


「……なに?」


眠いのか、廉はとろんとした瞳でゆっくりと喋った。


「約束、守ってな」


おれは、しにたくない。まるで死に際のように廉は言って、こてんと意識を失った。すぐにでもナースコールを押した方がいいのに、なぜか私は押せなかった。


「守るよ。あなたの夢は私の夢でもあるから」


ずっと、ずっと死にたいと思っていた。ようやく見つけた蜘蛛の糸を手放すほど私は馬鹿じゃない。でも、それと同時に私の中では別の感情も生まれていた。

廉の生に縋りつく様にはある種の憧れに近いものを感じる。生きているものには必ず死という賞味期限がある。遅かれ早かれそれは訪れるのに、廉はそれに抗うために必死に藻掻き続けている。

一体何がそこまで彼を突き動かすのだろう。それは私にはない、高校のカウンセリングの先生が言っていた『大切ななにか』なのか。考えれば考えるほど無駄なことで、廉への憧憬に似た感情が深まるような気がした。

ベッドに投げ出された廉の手を取ると酷く冷たい。どうか、私が彼の代わりに死ぬその時まで廉の体が病魔に食い尽くされないようにとその手を強く握りしめた。

 

 

 


「私、そう遠くない未来に仕事やめるから」


私の言葉に、同僚は目をまん丸にしてたっぷり間を置いて「はぁ?」と素っ頓狂な声を上げた。まぁ、突然同期のそこそこ仲の良い人間が辞めると言い出したら真っ当な反応だな、と思う。私がココアを啜っていると同僚が身を乗り出して小声で尋ねてくる。


「……部長にいじめられでもしたの?」


ごめん、気づけなくて。と凹む同僚にそんなんじゃないよ、と訂正を加える。


「あんまり詳しい話は出来ないけど、諸々の事情があってやめるの」


まだ辞めないけどね。と付け足す。ゲーム以外に趣味という趣味が無かったり、寝食を適当にすることが多かった為か私の通帳の預金額は思ったよりも多かった。この様子ならEP施術費もなんとか賄えそう。当たり前だけれどEPを受ければ私は廉の体を蝕む病魔に体を乗っ取られる。そうしてしまえば仕事はおろか遺書も書けないかもしれない。

(準備は大変だけど、死ねるなら別にいいか)

それに、廉が生きることが出来るんだから。

珈琲を飲んでいた同僚はぼーっとしながら色々考えていた私の顔を見て、訝しげな表情を浮かべる。


「いちごはいっつも何考えてるかわかんないからなぁ」


でも、いちごの選んだ道なら応援するよ。と若干検討ハズレなことを言う同僚に私はありがとう。と返す。さて、廉に会いに行くかと私は立ち上がった。仕事終わりに同僚と休憩室で話すなんて何だかリア充っぽいことをしたなと思いながら、紙コップを捨てて休憩室から先に出ようとすると、同僚がやたらニヤニヤしていることに気づいた。


「なに?」


「いやぁ。いちご最近早く帰ること多いよね。もしかして彼氏でも出来たの?」


にまにましながら下世話な話をしてくる同僚。確かに、入社してから体調不良以外の理由で使ったことのない有休を使ったり、残業をすることの方が多いにしろ定時で上がることが増えた。導き出される答えとして誰か人と会っているという可能性が高いだろう。

(まぁ、合っているといえば合ってるかもしれないけど)


「いいなぁ。いちごにも春が来たのかぁ。彼氏さん大事にしなよ」


妄想癖があるというか、すこし早とちりがすぎる同僚は勝手に納得しうんうんと頷いている。訂正するのも面倒というか、なんだか心臓の部分が重くなった気がして、私は適当に笑った。

 

 

 


病院までの道を、マフラーに顔を埋めて歩く。少し前までハロウィン一色だった街はいつの間にかクリスマスツリーやら雪だるまやらに占拠されていた。もうそんな時期なのか、と思いながら私は肉まんを美味しそうに食べていた廉の顔を思い出した。

(もしかしたら廉、クリスマスケーキも食べられないのかな)

ここ最近は私も食べていなかった気がする。ちらりと目線をやった街頭には可愛らしいケーキ屋さんがあった。私は立ち止まって少しだけ悩み、ケーキ屋さんの中に入った。


「いらっしゃいませ」


可愛らしい店員さんにそう言われて私は軽く会釈する。ショートケーキからブッシュドノエルなど愛らしい見た目のケーキがずらりと並んでいた。どれも美味しそうでうんうんと悩んでいると見かねた店員さんに「どのような商品をお探しですか?」と尋ねられてしまった。


「えっと、じゃあおすすめってありますか?」


私の言葉に店員さんはこちらなどいかがでしょうとティラミスやモンブランを示してくる。


「じゃあ、このショートケーキとティラミスを一つずつください」


「かしこまりました」


店員さんはケーキを箱に詰めてくれた。八百円ですと言われて私が小銭を用意していると、何故かやたらと店員さんがニコニコしてこちらを見ていた。


「素敵ですね。彼氏さんと一緒に食べるんですか?」


もうそろそろクリスマスですものね。と楽しそうに笑う店員さん。なんでみんながみんな廉を彼氏だと勘違いするんだ。結局小銭がなくて千円札を出した私に、「彼氏さんとごゆっくり」なんて要らんことを言って店員さんは手を振っていた。

 

 

 


病院の受付前には組立式のクリスマスツリーが飾ってあって、どこよりも死に近いはずの病院ですら赤と緑に彩られていた。きゃっきゃとはしゃぐ子ども達を尻目に廉の病室まで行くと、そこには先客がいた。


「お兄ちゃんすごーい」


「ね、もっと歌って〜」


部屋の中にはベッドに座った廉を囲むようにして三、四人の子供がいた。楽しそうに笑いながら誰もが知っているクリスマスソングや最近人気の歌謡曲など多種多様な曲を歌い上げる。あまりにも幸せそうな、完結された世界を前に私が扉の前で立ち竦んでいると廉がこちらを見た。


「あ、いちご」


廉の言葉に子ども達は「こんばんは〜」「お姉さんも聞きに来たの〜?」「ね〜次はこの曲歌って」と口々に言う。しかし、廉は私の顔を一度だけ見て子ども達を見回した。


「ごめんな、俺はお姉さんとお話あるから今日はここまで」


えーっと子ども達から出る不満の声を宥めると、渋々といった様子で部屋を出ていった。未だに扉の前に立ちつくす私に廉はぶはっと吹き出した。


「お前、わかりやすすぎ。子供苦手やろ」


早く入り、と促されて私は椅子に腰掛けた。


「廉は子ども好きなの?」


「普通に好きかなぁ。だって誰しもが通った道やからな」


だからこそ可愛く思える、と言う廉に確かに一理あるなと思った。


「それに、もしかしたらいちごにも産まれてたかもしれんやん」


二十五やったら結構いい年齢やし、と言う廉。今日はやたら恋愛の話をされるな。


「廉は結婚願望とかないの?」


「人並みにはあるけど、結婚と仕事どっちかを選べって言われたら仕事をとるかな」


それは彼らしい返答だった。廉は外見も綺麗だし優秀だ。世の中の女の子からすればかなりの優良物件なのだろうが、わかりやすい彼と付き合おうものならすぐに脈なしだと分かってしまいそうだ。


「逆に、いちごには無いん?」


と聞かれたのでうるさいなぁと一言返す。私だって結婚願望が無いわけではないけれど、もし結婚なんてしていたら廉にEPなんて持ちかけてない。廉は私の反応の何が面白いのかけらけら笑う。


「そうだと思った。いちご意外と分かりやすいから」


私はその言葉に目を丸くする。普段からあんまり表情筋が動かなくて、分かりずらいと言われることが多いから意外だった。


「……分かりやすい?」


「おん。あんまり表情は変わらんけど、声音が変わるから」


喜んでいる時はそのように、心配している時はそのように。案外わかるもんやで、と言われる。そっか、声音で分かるんだ。と少し呆然としていると、目ざとく私の持つ白い箱に気づいたようで急にそわそわし始める。


「なぁいちご。その白い箱はまさか?」


「あぁ、これね」


私が箱を開くと中から出てきた可愛らしいケーキに廉の表情がぱっと明るくなる。廉はすぐに表情に出るな、と思いながらティラミスを廉に渡すと、廉は嬉しそうに手を合わせた。

ちょっと、肉まんの時の遠慮はどこへいったの。まぁ幸せそうだからいいか。と私もショートケーキに手をつける。甘すぎない生クリームと熟れた苺に舌鼓を打っていると、廉がこちらをガン見していることに気づいた。


「え、なに?」


「えっと……一口もらったりするのは……」


なんだ、そういうことか。廉の口元にショートケーキを持っていくと、小鳥の雛のように口を開いて食べる。


「食事制限はいいの?」


口に入れたあとで聞くのもなかなか変な話だけれど、私の言葉に廉はもぐもぐ口を動かしながらふふんと笑った。


「ええの、ちょっとぐらい手を抜いても」


肉まんの時は私が唆したのに、なんだか少しだけ不安になる。廉は「ほら、いちごにもやるわ」とティラミスをのせたスプーンを私の口元に持ってくる。少し悩んでそれを頬張ると、廉は嬉しそうに微笑んだ。


「美味いなぁ」


ありがとう、いちご。と言われて、私は口をもくもく動かしながら頷く。外を歩いていた時はあんなに寒かったのに、いつの間にか頬はぽかぽかと暖かくなっていた。

 

 

 


「どう?変やない?」


ボンボンが着いたニット帽を被った廉が、鏡を前に左右を確認する。いつもの病衣にカーディガン姿ではなく、白にニットと体にぴっちり合ったズボン。足は猫の靴下と真新しいスニーカーを履いている。私が「いいんじゃない?」と返せば「適当か!」とやたら楽しそうな早いツッコミが返ってきた。

『久しぶりに街を歩いてみたい』

廉がそう言ったのは三日前のことだ。早足にクリスマスが過ぎ去って大晦日を前に色々な人が忙しくなってきた中で、今街を歩きたいと言うのはなかなかに無謀なことではないかと思った。そもそも彼に外出許可が出ているのかどうかすら怪しかったし、一人で歩かせるわけにはいかないから結局私がついて行かなければいけなくなる。最も、ゲーム会社の、それも開発チームの繁忙期なんて納期前がいいところ。事務の人達は今頃年度末決済の資料作りなどで忙しいと思うが、私には全くと言っていいほど関係がない。


「それにしても、なんでこんな時期なの?」


気まぐれにしてはタイミングというか時期が悪すぎる気がする。廉はニット帽を目深に被ると「この時期じゃなきゃダメなんよな」と言う。


「じゃあいちご、行こうか」


そう言って膝の上にショルダーバッグを置いてからからと車椅子を転がし始めた廉に、私はマフラーを巻いて彼の後ろの取手を掴む。どこに行くのかは知らないが、一緒にEPを受ける手前手伝ってあげようじゃない。ナースステーションまで行くと、廉は先日私に話しかけた妙齢の看護師さんに一言二言言葉を交わして「ほな行こか」と言った。聞くと、何時までに戻るかの話をしていたのだと言う。


「あの看護師さんと廉は仲良いの?」


あの人は廉からよく私の話を聞くと言っていた。廉は顔だけこちらに向けて「おん」おだけ言うと再び視線を戻した。エレベーターの中には私と彼しかいない。廉は看護師さんについていくつか話をしてくれた。

曰く、あの看護師さんは廉が病気を発症し、この病院に引き取られた時からずっとあそこの階を担当しているベテランの看護師さんだそう。初めから病気に罹っている人と違い、中途発症して突然未来が断たれたことで絶望し、自暴自棄になる人があの病棟には多いのだという。

私はその言葉に、廉がいる階が他のどこよりも死の匂いが強い理由が少しわかった気がした。


「俺も、最初は自棄になってたなぁ」


両親にも見放されて、病院に一人残された。彼が病気を発症したのは小学六年生の時だと言っていた。十二歳の子どもに現実を受け入れろというのも酷な話だろう。

しかし、あの看護師さんだけは投げやりになった廉を見捨てたりしなかった。暇があれば話し相手になり、学校に行くという選択肢を残してくれたあの看護師さんを廉は第二の母親のように慕っているのだと言う。


「俺が信頼出来る人。叱られることはめっちゃあったけど、あの人と出会って俺は救われたと思う」


いちごにはそういう人おらん?と尋ねられる。病院を出て歩きながら私は悩んでそっと口を開いた。


「高校で、月に二回だけカウンセリングの先生が来てたんだけど、その人かな」


「ふーん。どんな人?」


廉は興味津々に尋ねてくる。カウンセリングの先生など、文字通り何も考えずに生活していればほとんど無縁の人だろう。しかし、そう言った職業がなくならないのは何も考えずに生活している人だけではないという証明だ。


「会って、ちゃんと話をしたのは一回なんだけど。おっそろしく顔の造形が綺麗な先生だよ」


それこそ廉よりも、なんて言ったらいじけるだろうか。でも廉とは違った大胆さや精悍さに溢れたやはり整った顔立ちだった。

私は、先生との話を掻い摘んで廉に話して聞かせた。暇をしているから話し相手になって欲しいと言われたこと、茶請けにでてきたものがミルクティーとぬれおかきという頓珍漢な組み合わせだったこと。そして、死にたいと思うことは正常であるということ。廉はこちらを振り返りこそしなかったけれどじっと私の話に耳を傾けているようだった。


「素敵な先生やん」


私がきりのいいところまで話し終えた時、廉は穏やかな声でそう言った。彼は何も考えずに「死にたいなんていうな」と言うタイプの人間ではない。様々な苦悶と懊悩の果てに泥水を啜り、地面を這い蹲ってでも生を全うするのを選んだ人間だ。否定されるとは思っていなかったけれど、彼の純粋な賞賛に少し驚いてしまう。


「もっと、何か言われるかと思った」


純粋に私が思ったことを言うと、廉は「すごくいい先生だと思うよ」と私を見て言う。その瞳には嘘の色は見受けられなかった。廉はごそごそと体制を立て直して再び前を向く。


「死が近すぎて、死にたいと思ったことはないけど。俺はその先生の言う通りだと思う」


人間が死にたいと思うのは正常であるという先生の持論に、廉は同意した。今では死にたいと思っている人すら少なくなっていることも、そう言った己と向き合った意見を周りに投げかければ賛同の前に共感や理解すら得られずに社会が怖くなることもあるのだと廉は言った。


「社会性やコミュニティを形成して生活するのは人間の秀でた部分やと思う。でも、足並みを揃えて歩く、同じ方向を向くことが当たり前の世の中では別の意見は異端と切り捨てられることが多くあるよ」


今の俺みたいにな。


そう付け足した廉に私は一瞬足を止めてしまった。彼は気づいていた。ざわざわと雑踏を歩く人々が廉の姿を見ては連れと小さな声で会話をしたり、気持ち悪いなどと暴言を吐いていくことに。ニット帽を被っていても、彼の髪の毛は色が淡く、瞳も琥珀のように明るい。さながら雪の妖精のようなその容姿も周囲から見れば異端の、気持ち悪い存在だろう。廉は私を見て呆れたような、どこか泣きそうな表情を浮かべて言った。


「なんやいちご、その情けない表情は」


その言葉、そのままそっくり廉に返すよ。そう思いながら私は「うるさいな」とだけ返しておいた。

 

 

 


廉が行きたかったという場所は病院の最寄り駅から三駅離れた所にある工具店だった。個人経営のお店らしく、中に入ると店主らしき人が廉を見て「おう、来たか」と言う。


「お前さんが欲しいって言ってたパーツだ。これでいいか?」


店主さんは廉のところに中くらいのダンボール箱を持って行った。それは、私が廉の病室で手巻きオルゴールを取る為にクローゼットを開けた時、入っていたダンボール箱と同じロゴが入っている。廉はダンボールの中身を一通り確認して店主さんにお礼を言っていた。どうやら欲しかったものが買えたらしい。


「無理言ってごめんな、いちご」


この時期は棚卸だのなんだのでオルゴールの部品が安くなるらしく、廉はその時期を狙って多めに部品類を買っているのだと言う。掘り出し物がないかと商品棚を漁りながら廉は話す。


「ほんまに助かったわ。毎回店主さんに病院まで来てもらうん申し訳なくて……」


廉の言葉に店主さんは大きな声で笑った。あまりにも声が大きすぎてガラス張りの戸が少しだけ揺れる。店主さんは低い位置にある廉の頭をばんばんと叩いて「良いってことよ!」ど豪快に言う。


「おめぇさんの作るオルゴールは凄いからな!今度また、螺子巻式のを頼むぜ」


もちろんや。と笑う廉に、私は廉が螺子巻式のオルゴールも作るのだと知った。よく見る螺子巻式のものは、何小節かを永遠に繰り返すタイプのものだが紙に穴をあけるタイプのものと違って円柱状のものだ。音が鳴る部分も凹んでいるのではなく突起のように出っ張っていて、溶接とかの技術も必要なのではないか。

廉にそれを尋ねると、「慣れんうちは大変やったよ」とさらりと言ってのける。その間にどれほどの努力を積み重ねたのかを私は知らないけれど、彼はきっと人一倍の努力家なのだろう。


「いちごも物色せんの?」


ぼんやりと廉のことを考えていると、棚の間から廉がひょっこりと顔を出して尋ねてくる。ゲームは機械だけれど私の専門分野は組み立てたりくっつけたりする方じゃなくて中身の部分を作ることなんだけどな。なんて思いながら廉の後ろを追いかけると、きらりと視界の隅で何かが光った。


「なにこれ」


箱の中に入ったそれを取ると、それはロケットペンダントだった。金属を加工して出来た雫の形をしており、そこそこ大きい。アクセサリーとしては結構目立つな。そんなことを思いながら見ていると廉が横にやってきて私の手の中を覗き込む。


「ロケットペンダントやん。せっかくやから買っていこ」


別にいらないよ、という前に廉が箱の中から漆黒と純白の雫の形をしたペンダントを選んで店主さんのところに持っていく。気になっただけで欲しいわけでななかったのに。でももらえるものはもらっておこうと購入を済ませた廉に言うと「何言ってんの、これは両方俺のや」とさも当然とでも言いたげな顔をして言われた。ま、まじか。


「ありがとうな、店主さん」


「おうよ!またいつでも来いよ!」


手を挙げて見送ってくれた店主さんを尻目にダンボールを膝の上に抱えた廉をのせた車椅子を押す。


「足に載せて大丈夫なの?」


彼の足はもう動かないと言っていた。私がダンボールを持ち上げた時にそこそこ重量があったので尋ねると、廉は「大丈夫」とだけ答えた。廉の場合、筋肉を動かす神経系が死んでいるのであって触られたりなどの感覚はあるという。そこら辺の違いは分からないけれど、動かないだけでものを載せたりするのは大丈夫みたいだ。


「今日はありがとうな」


電車の中で、廉はマフラーに顔を埋めてへへっと無邪気に笑った。ここまで来るのは大変だったし、まだ病院には辿り着いていないけれど、彼の笑顔を見たら何となくどうでも良くなってしまって「どういたしまして」と返した。

 

 

 


年が明けた。
私は毎年この時期は実家に帰省しているので、大晦日から三が日過ぎるまでは廉と会わなかった。実家に帰った時におせちを食べる片手間に軽く、悟られないように身辺整理をしておいた。廉についても多くを知ってきた頃だし、ボーナスが思ったよりも多く入ったのでもうそろそろEPを受けるための審査の申請をしようと思ったのだ。両親や兄弟にはEPを受けることは話していない。話せば止められるのは目に見えていたし、無用な心配をさせたくなかった。

EPの事前審査書類が家に届いてからは、記入漏れなどがないかなどをちゃんと確認した。廉の元にも届いているはずだから、後で彼のも確認しておこう。そう思いながら、私はEPの注意事項のところに目を遣る。


「変な話……」


EPの注意事項として、特に目を引くのは以下の二文だ。

一.EP施術後、パートナー同士で会うことを禁する
一.同じパートナー同士で行えるEPは1回のみとする

EPの回数が限られるのはなんとなく分かる。同じペアで何度もやれば施術費もとんでもない額になるだろうし、病気が体を行ったり来たりと言うのは変な話だ。それよりも目を引くのは、EP後に、一緒にEPを受けた人間とは会えないということだ。どうしてこのような文言があるのか。私には見当がつかないがこういった注意事項が守れなければEPを受けてはならないらしい。

(EPを受けたら、廉と会うことは無くなるのか……)

あの生命力に溢れた瞳をもう見ることが出来ないのは、若干残念だけれど仕方がない。私は同意書にサインをした。

 

 

 


「あけましておめでとう、いちご」


病衣の上にカーディガンを着た廉は、私の姿を見るなりそう言った。彼の手元には工具などがいくつか置いてあり、また仕事をしていたのか。と思う。私が彼に近寄ると、何だか変な違和感を感じた。


「廉?あなた……」


違和感の正体を探そうと私が視線を巡らせる。廉は私の顔を見て、じっと何も言わなかった。まるで、私自身にその違和感に気づいて欲しいとでも言いたげに。うろうろと視線を彷徨わせて、ようやく気づく。


「……手、どうしたの」


机の上に置いてある工具。これがある時は、廉はいつもそれらをいじっていた。細くて長い指先で、魔法を紡ぎ出すが如く彼はオルゴールを作っているのだ。しかし、その手は机と毛布の下に隠れている。工具はそこに置いてあるだけで、一切手をつけてはいない。廉はゆるりと目を細めるだけで何も言わない。椅子に座った私が痺れを切らして廉の手を毛布から取り出すと、廉の手は小さく痙攣していた。


「……廉」


「ついにここまで来たな」


足、色素、そして腕までが使い物にならなくなる。そうしたら彼は、自分で肉まんを食べることもオルゴールを作ることも出来なくなる。愕然とする私に、廉は穏やかな表情で笑った。


「まだ動く。オルゴールも頑張れば作れる」


でも、それも時間の問題やな。そう言う廉はいつもの生気に満ち溢れたそれではない。死刑宣告を受けて、それを静かに受け入れて待つ人間のような表情をしていた。


「諦めないでよ」


何だか無性に腹が立った。廉が緩く笑っていた視線をこちらに向けて驚いたような表情を浮かべる。諦めないで欲しかった。私に啖呵を切って、生きることに貪欲な彼が、病に心まで奪われてたまるかと言い切った彼が。私が死にたいとか以前に、EPを目の前にして諦めるなんてことをしてほしくなかった。


「藻掻き這い蹲ってでも生きるって決めたのは廉でしょ。だったらこんな道半ばで諦めないで」


あなたがそんなんだと、私までどうしたらいいか分からなくなる。私の言葉に、廉の唇が薄く開く。そこから喘ぐような声が零れては少しずつ嗚咽に変わっていった。琥珀の瞳からは大粒の涙が溢れ出て、彼は年柄もなく大泣きをした。不思議と私は涙が出なかった。だからただ何も言わずに、彼を抱きしめていた。

 

 

 


泣き止んだ彼が鼻をずびずびと啜りながら「ごめん」と濁点塗れの言葉で謝る。私は気にしないで、とだけ言った。人間誰しも不安になることは多いものだ。彼の恐怖は最も根源的な、正しい感情だろう。

よしよしと、弟や妹にやっていたみたいに頭を撫でると、廉はこちらを見た。先程までの不安そうな色はそこにはなく、いつもの廉の色がそこにはあった。


「いちご。一個だけお願いがある」


お願い。一体なんだろうかと私が首を傾げると、廉はしっかりとこちらを見据えて言った。


「曲を、作って欲しい」


彼は言った。EPを受ければ私と廉のつながりは無くなる。だから、その前に私の作った曲でオルゴールが作りたいのだと。もう彼の意志とは関係なく指先は震えていて、きっと作るのはとんでもなく大変だろう。


「いいよ」


私は悩みもせずに答えていた。彼の瞳には並々ならぬ決意が浮かんでいるのだ。一緒にEPを受ける。ただその為だけに彼と時間を過ごしてきたが、今更彼の願いを無下にすることは出来なかった。

 

 

 


「……いや短くない?」


私は家に帰って、一日で曲を作ってきた。廉の腕が動かなくなるまでのタイムリミットが分からない以上、早く仕上げて廉に渡さなければならない。作曲なんてしたことが無かったから勝手分からず作ったけれども、なかなかよいものが出来ているんじゃないかと思う。でも、廉が譜面を見て言った言葉はそれだった。


「俺は八小節くらいで頼むって言ったんやけど」


「いいじゃないべつに」


彼が私の曲で作りたいと言っていたのは螺子巻式のオルゴールだった。同じフレーズを何度も繰り返すのだから、八小節も四小節も大差ないでしょ。廉はごにょごにょと「それに音数も多くないし」と呟く。今回私が作ったものは、至ってシンプルな曲だった。シンプルと言うのは、混じり気の無い、純粋だということ。いいじゃないのと思う。私たちの間には、それくらいでちょうどいいのだから。

 

 

 

廉が、オルゴール作りに没頭している間、私はEPの審査のための書類を完成させた。廉にもちゃんと署名をしてもらい、何とか出来上がった書類を日本で唯一EPをやっている病院に書留で送る。廉の署名欄の字はよれよれと曲がっていた。文字を書くのですら困難なのに、彼がもっと細かい作業をしていると思うと少しだけ心が痛む。

廉の健康状態などを記した問診票はあの妙齢の看護師さんが作成してくれたらしい。あの人は私を見て「頑張ってね」とだけ言って一度強く手を握られた。それ以上何も言わない姿に、廉があの人に救われたと言っていた理由を何となく察した。

ついでに仕事もやめた。まだEPの審査の日にちまでは時間があるけれど、廉と一緒にいる時間を少しでも長くしておきたいと思ったから。今は病院と家を往復する日々を送っている。


「こんにちは」


今日も今日とて廉に会いに来た。ここ最近はナースステーションで軽く挨拶をするようになっていたので、軽く会釈をすると、一人の看護師さんがこちらへやってくる。その看護師さんはあの妙齢のひとではなく、歳若い人だった。ウェーブした長い髪の毛が特徴的な、可愛らしい人だ。


「あの、539号室の患者さんの友人の方ですよね?」


どこか不貞腐れたような表情でそう言ってくる看護師さん。「そうです」と返す。たしか前にも同じようなことを言われたけれど、私と廉はギブアンドテイクの関係で決して友人と呼べる間柄ではないと思う。看護師さんは眉間に皺を寄せた。あれ、私何か変なこと言った?


「あなたからも言ってください。毎日きぃきぃ音を立てられるのは凄く迷惑なんですって」


「はぁ」


私は味気ない返事をしてしまった。その看護師さんはぐちぐちと私に廉の文句を言い始める。毎日仕事をしているのはいいことかもそれないけれど、オルゴールの組み立て音がうるさくて集中出来ないのだと言う。他の患者さんにも迷惑しているし、やめさせろ言うその人に、私は、


「そんなことないんじゃないですか?」


反論していた。
下腹部がピリピリするような、胸がむかむかするような何とも言えない感情が湧き上がってくる。


「他の患者さんにも迷惑しているって、どれくらい苦情がきているんですか?廉の部屋は一番端で、東棟で入院しているのは廉だけですよね?」


廉の部屋の近くには誰も入院患者がいない。それは、あの妙齢の看護師さんが仕事熱心な廉を気遣ってのは思慮なのだと廉は話してくれた。実際に仕事をしている時に私が彼の部屋を訪れても、その作業音が聞こえてくるのはだいたい3つほど手前の部屋からだ。当然ながらそこら辺に入院患者はいないし、そもそもこの階を看護師さんと廉以外が歩いているのを見たことがなかった。この看護師さんが、変な理由をつけて八つ当たりをしてきているのは明白だった。


「適当なことを言わないでください。廉は、ここの病棟の誰よりも努力をしているんです」


なんにも知らない人に、彼の努力を馬鹿にされたくなかった。当たり前のように生きていられる人間に、死に物狂いで生きている廉の心を無下にされたくなかったのだ。まさか言い返されるとは思っていなかったのか、呆然とする看護師さんを一瞥すると私は早足で廉のいる病室まで向かった。


「よういちご……わっ」


がらりと引き戸を開けて中へ入ると、廉が私に挨拶を終える前に彼の体を抱きしめる。冬の、中庭に寝転んでいた時よりも彼の体は細く、薄くなっているような気がした。芽吹き始めた柔らかな春風に流されてしまいそうな、そんな脆さにきつく抱きしめると廉は目を白黒させながら「ど、どうしたん?」と尋ねてくる。彼の机の上には、作りかけのオルゴールが置いてあった。


「廉、れん……」


お願いだから、EPを受けるその時まで死なないで。先程とは違う意味で胸がぎゅうぎゅうと締め付けられるように苦しい。存在を確かめるように何度のその名を呼ぶと、廉は何も言わずに、私の背中に手を回してくれた。

ちっとも力の入っていない抱擁だけれど、彼も同じように手を回してくれたことが苦しくて、何だか無性に泣きたい気持ちにさせられた。

 

 

 


「情緒不安定ないちごは初めて見た」


廉を離すと、彼はどこか嬉しそうに笑いながらそう言った。言われてみると彼の前で取り乱したのは初めてかもしれない。私がふいと顔を逸らすと、廉はさらに楽しそうににやにや笑っている。窓の外には例年より早咲きの桜かひらひらと舞っていた。


「廉。桜を見に行こう」


気恥ずかしくなって話題を変える。彼は紅葉を近くで見たいと部屋を出ていったことがあったのだから、きっと今回も見に行きたがると思ったのだ。案の定廉はきらりと目を輝かせて、こくりと頷く。車椅子を用意すると、私は廉の体を持ち上げて乗せた。もう彼は、自分の手で車椅子を動かすことは出来ない。私が後ろから押して歩けば、廉はありがとうと言った。


「来年の桜は、一緒に見れないんやろな」


廉のやけに静かな声音の言葉に、私はそうだねと返した。EPは審査が通らなければ施術を受けることが出来ない。もし審査が通れば私は廉の代わりに死に、審査が通らなければ廉は今年中に病に殺されるだろう。ずっと前から、それこそ私が彼にEPを持ちかけた時から決まっていた事のはずなのに、少しだけ名残惜しく思えるのは気の所為だろうか。

中庭までやってくる。外はまだ少しだけ肌寒いけれど、花見に出ている患者や人は多いようで軽くごった返していた。


「めっちゃ綺麗。見て、いちご」


風が吹き、桜の花嵐が巻き起こる。世界はこんなにも綺麗だと晴れやかに笑う廉の瞳にはゆらゆらと灯火のような光が見えて、綺麗だった。泣きたいぐらいに。

 

 

 


新緑の季節の前に、審査の日が決まった。梅雨明けの時期になるそうだ。廉は二人分の小さなオルゴールを作り終えたのに、まだ完成ではないらしく私には見せてもくれなかった。私が作った曲なのに、と文句を言えば、オルゴールは俺が作ってるからまだ駄目だと断られてしまった。まぁ、職人気質の廉のことだからきっと中途半端な状態で見せるのが嫌なのだろう。彼の気が済むまで大人しく待ってあげるか、仕方ないから。

ぴかりと光る雷鳴に廉の肩が分かりやすく跳ねた。桜が咲くのも早かったが今年は梅雨入りも早いらしく、外には大粒の雨がざあざあと窓に叩きつけるようにして降っていた。


「凄いな雨だな……。いちご、家に帰れる?」


「そうなんだよね」


昼前はからりと晴れていたし、家を出てくる前に携帯で見た降水確率は三十も無かったから傘すら持ってきていない。この中帰るのは無謀かもしれないなぁと思っていると、廉が「だったら……」と雨に掻き消されそうな声で小さく呟いた。


「今日、泊まっていかん?」


「……は?」


私が廉を見ると、廉の目は若干濡れている。嘘をついている瞳ではなかった。彼は嘘をつくのが下手ではないが、人にも自分にも正直な人間だ。つまらない嘘を吐くような性分ではないことを、私自身がよく理解していた。私は少し悩んで、廉に尋ねる。


「ベッドは?」


「少し狭いけど、いちごがいいなら一緒に寝よ」


「……」


「あ、手出そうとか思ってないで!?大体出そうにも俺はもう手動かんし、」


「……パジャマは」


「俺の病衣の予備貸したる」


「私女だよ?」


「だから手出せへんって!」


すぐに言い返されてなんだか面白くなってしまう。廉の手が動かないことなんて私が一番知ってるんだからそんなに慌てなくていいのに。大体そんな関係じゃないでしょ、私たち。


「……どうすんの?」


と廉は念を押すように聞いてきた。
帰ってもいいけれど、濡れ鼠になってフローリングをびちょびちょにするのも嫌だし。というか面倒くさい。心は既に決まっていたけれど、すぐに返答するのもなんだか癪でたっぷり間を置いてから「じゃあお言葉に甘えようかな」と言った。廉はくしゃっと笑って「じゃあ看護師さんに言わんとな」と言った。廉の話によると、今日の夜勤はあの妙齢の看護師さんなのだという。あの人ならきっと許してくれるだろう。私は椅子から立ち上がって廉にその旨を伝えてくると言った。机の上に投げ出された廉の手は震えていないけれど、手を上げることすら重労働みたいだった。


「あの……」


「あぁ、こんにちはいちごさん」


ナースステーションに顔を出すと、あの妙齢の看護師さんがいた。私が、今日は廉の部屋に泊まると看護師さんに伝えると「まぁ」とくすくす笑った。


「分かりました。本当は駄目なんですけど、今日の夜の見回りも私なんです」


だから、内緒ですよ。と茶目っ気たっぷりにウインクする看護師さんに私は頭を下げる。


「私、いちごさんと片山さんがEPを受けるのはとても悲しいわ」


二人ともとても素敵な人だから、出来ることならどちらも生きていて欲しかった。そう言う看護師さんに、私は苦笑した。私よりも、あなたや廉の方がずっと素敵な人だ。看護師さんは「でも、お二人が選んだことだからこれ以上は何も言いません」と穏やかに笑った。


「あのね、私いちごさんにお礼が言いたいの」


お礼。何か礼をされるようなことがあっただろうか。看護師さんは両手を背中に回すとゆらゆらと揺れながら話す。


「いちごさんに会ってね、片山さんは変わったわ」


「変わりましたか?」


初めて会った時と同じ、廉には生きる力みたいなものを私はずっと、ひしひしと感じていた。看護師さんは「変わったわよ」と私の肩を叩いてくる。


「昔はね、あの子もっとがむしゃらに生きたいって感じだったの」


生きたいって気持ちばかりが先行して、見ているこっちが不安だったわという看護師さん。しかし、いちごさんに出会ってからただ生きたいのではなくちゃんと理由をもって生きたいと思っているみたいなの。と話してくれた。言われてみれば、廉がどうしてそんなにも生を望んでいるのか、そこに具体的な理由が存在するのかを私は知らない。


「夕食はこっそり二人分運びますからね」


さぁ、早く戻ってください。と言って私の背中を押す看護師さんに、私は言いかけていた言葉を呑み込んで廉のもとへと戻った。聞くならば、やはり本人に聞きたかった。

 

 

 


「狭くない?」


暗い病室の中で、一つのストレッチャーベッドに向かい合って二人で眠る。私を見る廉の目は若干不安げだ。窮屈でないかが気がかりなのだろう。大丈夫だと告げて、何となく病衣の上から廉の腕を撫でる。すると、暗い中でも廉が目を見開いたのが分かった。


「変態」


「なんでよ」


感覚は残っていると言っていたから、触れられたことは分かるのだろう。私は労わるように廉の腕を撫でる。


「俺はいちごに触れられんのに、お前だけ俺に触れるのはずるいやん」


「……手出さないんじゃなかったの」


それとこれとは別や。と不満げにこちらを見る廉がおかしくてくすくす笑う。


「俺は触れたいよ、お前に」


「え、」


「この手が動くうちに、もっと触っとけばよかった」


彼の瞳が私を捉えて離さない。その瞳の奥深くには確かに熱が宿っていた。
胃が浮あがるような、ふわふわとした心地に包まれる。

私も、触れられてみたかった。なんて。


「なぁ、手握って」


そう言われ、一言も発さずに私は彼の手を握る。彼の指は長くて、細くて、温かかった。


「……あったかい」


ふは、と擽ったそうに笑う彼。こんなにも長く彼の温もりに触れるのは初めてだった。
この手が動くうちにもっと触っておけばよかった、とあなたは言った。でも


「大丈夫、EPが成功すればまたこの手は動くようになるよ」


そう、もし審査が通ってEPに成功すれば彼の足も手も動くようになる。色素が抜け落ちてしまった髪は染めれば問題ないだろうけれど瞳はコンタクトを入れてもばれるかもしれない。
差別なんかされなければいいな。長い間車椅子生活だったからリハビリは酷だろうけれど、それを乗り越えればあなたは普通の、健康な人になれる。そうしたら、このあたたかい手で、細い指先で私以外の誰かに触れるのだろう。あなたはどんな風に手を絡めて、頭を撫でるのかな。そんなことを眠くなってきた頭で考えていると、廉に声をかけられた。


「今更かよ。って思うような質問してもいい?」


「いいよ。なに?」


「どうして、いちごは死にたいと思うの」


それは、ここまでお互いに聞いてこなかった質問だった。私も廉がどうして生きたがるのかを知らない。ここまで来て、それを聞くのもなんだかあほらしくも感じるけれど、私は答える。


「生きることに、意味なんてないからだよ」


看護師さんは、廉は私と出会って変わったと言っていた。同じように私も変わったのだと言ったら、あなたはどう思う?漠然とした希死念慮の亡霊が徐々に形をもって、世の中とか社会とか、己に対する傍観が自分の首を締め上げていることに私はいつからが気づいてしまっていた。


「生まれてから死ぬまで人間はひとりぼっち。大人になれば社会の歯車の一部になるだけで、死ねば何にも残らない」


だったら、生きていても死んでいても大差ない。私の言葉に廉は何も口を挟まず静かに聞いていた。その琥珀の瞳がこちらにずっと向けられているのを感じて、私は尋ねる。


「ねぇ、私も廉に聞きたいんだけど。どうしてあなたはそんなに生きたがるの?」


ただただ貪欲に生を望むその姿はとても綺麗だと思うけれど、彼がそこまでして生きたがる理由を知らない。廉は吐息を吐き出すように小さく笑った。


「いちごと同じだよ」


「…え?」


「生きていることに、意味なんてないからだよ」


訳が分からなくて放心してしまう。私が変な表情をしていることに気づいたのか廉が笑いながら「百面相しとるで」と言ってくる。


「いや、意味がわかんないよ」


私と廉の、明確な違いは何?
廉は握ったままの手にほんの少しだけ力を込めた。おそらくこれが、彼の全力だ。


「生きる意味を探したいから生きるんだよ」


生きて、世界を見て、自分自身と向き合って、様々な懊悩を抱えて、それでも全てをひっくるめて生きたい。


「生きている内はある程度のことが出来るやん。死んだら安らかに眠ることはできるけど、もう何も出来ん」


廉はするりと私にすり寄る。私が廉の背中に手を回すと、もうほとんど動かない彼の体はやっぱり温かかった。廉はぽつりと、目の前に私がいるのに誰に向けて言うでもなく話す。


「お前が死にたくて、俺が生きていたい。ただそれだけの、互いのエゴから生まれた関係のはずなのに、俺は今になって思うよ。俺が生きてもいいのかって」


EPを受ければ俺は生きることが出来るけれど、いちごはいなくなる。それは本当に正しいことなのか。そう自白のように呟く廉に、私は彼の髪をゆるりと撫でた。


「私は、他の誰かじゃなくて廉に生きて欲しいよ」


最初は誰でも良かった。きっと廉に出会わなくても私は、廉のように生きることを願う人間にEPを持ちかけていただろう。でも、廉と出会って、彼と時間を過ごして、他の誰かじゃなくてこの人になら命をあげてもいいと思った。彼が私の代わりに残りの人生を生きてくれるなら、私が今まで死なずにいたことを褒めてもいいような気がした。後悔も残らない気がしたから。

廉の瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちる。私の手の甲に落ちた涙は温かかった。
私も、彼も、どうしようもない命を抱えて生きているという証拠だった。

 

 

 


EPの審査が通った。
自分でも何を話したか憶えていないけれど、自宅に届いた審査結果には合格の二文字が書かれていた。合格もなにもあるのかと思うけれど、ようやく私達はこの長いようで短い道のりの終着点に来たようだった。


「いちごから外に行こうなんて珍しいな」


七月の終わり、電車で終着駅まで訪れた私に、廉はそう言った。私も彼も浴衣を着ている。今日はここの地域で夕方から夏祭りがあるのだ。本当は近場のお祭りに行きたかったけれど、車椅子の廉を連れてお祭りを歩くには都会は人が多すぎる。

漆黒に金のラインが泳ぐ着物を着た廉と、白地に瑠璃色の花が咲く着物を着た私はのんびりの田舎の街を歩く。道行く人は大体おじいしゃんかおばあちゃんで若い人は少ないようだ。


「ってかもうそろそろEP実施日なのに外出してよかったの?」


「いいんじゃない?別に」


EPの施術日まではあと一週間もない。夏前にEPの審査が通ったのにも関わらず、八月にEPを行うのは機械の整備等があるからだそう。EPの機械は被術者の病気の進行状況を見て調整しなければならないらしく、メンテナンスをしているのだという。本当だったら静かに療養しているのがいいんだろうけれど、今回は私の希望で廉を連れ回していた。


「夏祭りに行きたかったんだよね」


廉と。とは言わなかった。
廉と行きたかったのは本当でも、そんなこと言ったら彼が嬉しそうにするのは目に見えているから。

前を向いて、きょろきょろと楽しそうに視線を巡らせる廉の瞳は綺麗だ。思えば、彼からはいつも夏の匂いがした。青空にのぼる入道雲とか、一面のひまわり畑とか、風に揺れる風鈴とか、そういった網膜の裏にこびりついて離れないような鮮明な匂いがした。彼の体はいつだって死を纏っていたけれど、同時に彼の心はどんな時でも鮮やかな万華鏡のようだった。


「ちょっと休憩して、十六時くらいからお祭り行こう」


私はそう言って近くの茶屋に廉を連れて入った。お抹茶と羊羹のセットを注文すると、廉の口に羊羹を運ぶ。


「どう?おいしい?」


「ふっごく美味いれす!!」


もくもく咀嚼しては何故か敬語になる廉。その手は持ってきた巾着と一緒に膝に置かれたままだ。彼の手は、もう動かなかった。私はその手をちらりとだけ見て自分の分の羊羹も食べた。ほんとりと甘くて、冷たくて、美味しかった。

 

 

 


日が暮れかかってから廉と一緒にお祭りをやっているという神社まで行く。既に出店が並び、色鮮やかな提灯が灯っていた。


「いちごは何食べるん?俺はチョコバナナと、綿菓子と、唐揚げと焼きそばと、」


「いやいや食べすぎでしょ」


さっきまで抹茶飲んで羊羹まで食べていたのだからそんなにお腹は空かないと言う私に廉はまだまだいけるで、と言ってガハハと笑った。

折角なんだから、金魚すくいとか射的がやりたいと言うとあんなの夢を売る商売やで、と言われた。ちくしょう、夢見がちなのに変なところでリアリストなやつめ。


「しゃーないから、俺の分まで射的やってくれるならええよ」


もちろんいちごのお金でな!とつけた廉に若干腹立ちつつも私にやらないという選択肢はなかった。一回三百円の射的を2回分払って、コルク栓を詰め込んで的に向ける。パンッと撃つと、十円ガムが一つ落ちた。


「おぉ〜やるやん」


「ゲーム好きだからね」


FPSよりもTPSの方が好きだけれど、クソエイムではない。私はキャラメルやら吹き戻しやらと二回分の射的で結構な量のお菓子を落とした。廉がおぉっと歓声をあげて楽しそうに笑う。そのあとも、廉の要望通り綿菓子を買ったり境内まで行ったりしている間に終電の時間が近づいてきた。


「いちご、そろそろ帰ろっか」


私たちはここに日帰りで来た。失礼な話だが、こんな辺鄙な所に宿があるとも思えないので名残惜しさを感じながらも廉の言葉に頷くと、廉がふっと思い出したように視線を自分の膝に乗った巾着に向ける。


「いちご。お願いがあるんやけど」


「なに。これ以上チョコバナナは買わないよ」


ちゃうわ、と頬をふくらませて言う廉。彼はこれまでにチョコバナナを三つも食べていたからまた食べたいと言うのかと思ったのだ。廉は私に「巾着の中にあるのを取って」と言った。

私が廉の言葉に巾着を開けて中を探ると、財布の他に一つだけ何かが入っていた。それは冷たくて、少しだけ重い。手に取って巾着から出すと、それは漆黒で雫の形をしたロケットペンダントだった。

ざぁっと、さざ波のように全ての音が遠のく。祭囃子の鐘の音も、行き交う人々の笑い声も、客引きの声も、全てが遠い過去になったかのように。残像のように全てが不鮮明な世界で、手に握った少し重いロケットペンダントと廉の姿だけが鮮明なものとして、そこにあるたったひとつの真実として映る。


「EPを受けたら、もう俺らは二度と会えんから」


だから、いちごにこれを渡したかった。

廉の瞳は穏やかだ。灯篭流しのように彼の瞳の中で光が揺らめいていた。喉が張り付いたように私の言葉は一つも音を紡がない。しかし、廉の瞳はその全てを見透かしているようにも見えた。


「お前の曲、すごく良かったよ。知っとる?創作者は、孤独だから創作ができるって言うんやって」


孤独。ひとりであるということが、創作をする源泉になるのだと彼は言う。ゆるりと細められた瞳が、酷く泣きそうに弧を描いた。

 


「いちごも、孤独やったんやな」

 


その時、私は彼を連れてどこかへ行けたらと思った。
世界の果てに、私と彼の二人だけで行けるならなんにも怖くないんじゃないかと。その動くことのない手を掴んで離さずにいられたらどうなるのだろう。でも、


「そろそろ、帰ろうか」


私の言葉に廉は頷いた。震える手でロケットペンダントを巾着にしまうと、現実の全てがそこに戻ってくる。美味しそうな焼きそばの匂いも、打ち上がる花火の音もさっきと何ひとつ変わらなかった。

 

 

 


電車の中で、疲れたのかぐっすりと眠ってしまった廉の姿を見ながら私は考えた。彼と一緒に迎える未来なんて、在り来りで、決して来るはずのない夢物語のことを。きっと、今と同じようにくだらない話をして、彼が笑って、私が笑うだけのなんの変哲もない世界のそれが、何故だかとても愛おしく思えた。

 

 

 

EPの施術当日。

私と廉は同じ部屋のストレッチャーベッドに個別に横にさせられていた。あと三十分もしないうちに全身麻酔を打たれて、EPがはじまる。


「いちご」


ベッドに横になっていた廉が私の名を呼んだ。私が彼を見ると、彼は黙り込む。何かを、言うか言わないかを思索しているように見えた。


「私に出来ることなら言って」


もう、こうやってあなたと会うことはなくなるのだから。さらりと流れる綿毛のような髪の毛も、宝石のような瞳も見ることがなくなるのだから。
廉は私の言葉に、消え入りそうな声でお願いをする。


「なぁ、手握って」


それは、あの嵐の夜に、身を寄せあってひとつのベッドで眠った夜に彼がしたお願いと全く同じだった。一晩中あなたの温もりに包まれて眠ったあの夜。間違いなく私の人生の中で一番あたたかい夜だった。

出来ることなら、痛いぐらいに強く。

その言葉に、私は毛布の中から少しだけ出ている廉の手を掴んだ。彼が握り返すことはないけれど、強く、強く、骨が折れるんじゃないかと思うぐらいに、きっと学生の頃にやった握力測定よりも強く握りしめた。


「ふはっ、いたい」


「廉が痛くしろって言ったんでしょ」


忘れっぽいなぁ。と突っ込めば廉はガハハといつものように笑った。
無邪気なその姿に、きゅうきゅうと胸が締め付けられるような気がして彼の名前を呼ぼうとしたら、彼の声に遮られる。


「いちご」


「なに?廉」


「……いちご」


「ふふっ、だからなにってば」


「俺……」


何かに耐えるような表情をしていたのがついに崩れ彼の瞳が濡れる。

泣かないで欲しい、と思う。私はあなたに泣かれるのは得意じゃない。
でもその涙は私のせいだろうか。だとしたら少し嬉しかった。私は彼の涙の理由になれるのだ、と思えるから。


「俺っ……うぅっ……」


廉はいつもそうだった。言葉にできない想いが溢れるとそれを涙に昇華させる。私の何倍も素直な彼は、私の何倍もよく泣くから慰めるのが大変だった。これから先、彼の傍にいる人は何十年と大変な思いをするだろう。

でも、その苦労ですら私は愛おしかった。


「ごめんね。ありがとう。」


涙を流す彼に私がかけた言葉はたったそれだけだった。もっと他に伝えるべき言葉があるのかもしれない。何がごめんで何がありがとうなのか自分でもよく分からない。ごめんね。こんな私で。でも、ありがとう。

扉が開いた。


「時間になりました。移動します」


医者の淡々とした物言いの後で看護師にベッドごと移動させられる。繋いだ廉の手はあっさりと離れていった。

途端感情が溢れ出す。こういうとき、何を言えばいいのだろうか。恋とか愛とか、目に見えない形ないものから今まで目を背けてきたけどもっと勉強しておけばよかった、そうすれば、廉にこの想いを伝えられたかもしれない。


「廉」


彼の名前を呼んだ。彼がこちらを見る。彼の姿を目に焼きつける。だって、私はこれで最後だ。

琥珀の瞳が揺れている。
あぁ、私、その瞳が、世界でいちばん好きだよ。


「廉」


「なに?」


「幸せになってね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


晴れやかな空には何匹かの羊雲が泳いでいた。EPに成功して、俺の手足は動くようになった。手は動かなかった期間が短かったからかすぐに動くようになったけれど、足に関しては鉛玉を詰め込まれたように動かしにくい。今はリハビリの途中で、松葉杖があれば何とか歩けるようになっていた。

 

EPの後、俺が目覚めた時にはもう、彼女の姿は無かった。震える手で彼女のロケットペンダントのオルゴールの螺子を回し、彼女の病室に置いて欲しいと昔からお世話になっている看護師さんに頼んだ。なぜそんなことをしたのかは自分でもよく分からない。ただ彼女にこのオルゴールを聴いて欲しいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

十年後。
リハビリを終えて、世界を旅してまわっていた俺は久しぶりにあの病院に戻ってきていた。風の噂で、あのお世話になった看護師さんが定年退職をすると聞いたのだ。あの人にはとてもお世話になったから、最後にきちんと挨拶をしておきたかった。病院の中に入ると、何一つ変わっていなかった。何だか感慨深いものを感じながら俺はあの病棟のある階までエレベーターで昇る。


「こんにちは」

 

「あら、片山さん!わざわざありがとう」

 

そう言って手をパタパタする看護師さん。変わってないなと思い少し心が軽くなる。彼女のことを思い出していたのだとそこで気づいた。気づいてしまった。

 

「そう、片山さんに渡したい物があったの。あっあったわ、はい、これ」

 

そう言って渡されたのは漆黒で雫の形をした、ロケットペンダントだった。

 

「これ…って……」

 

「いちごさんの遺品よ。これだけは御家族よりもあなたに渡した方がいいと思って、ずっと持ってたの」

 

看護師さんはそう言って、やわらかく笑った。

 

彼女は、これを聴けたのだろうか。これを聴いて何を思っただろうか。俺が過ごすはずだった最後の時を、何を思って過ごしたのだろうか。後悔じゃなければいい。絶望じゃなければいい。彼女の瞳から、光がなくなる日が、来なければよかったのに。

この十年。十年かけて、吹っ切れたと思っていた。思いたかった。彼女は言った。

 

「幸せになってね」

 

あの声が、あの顔が、忘れられない。彼女のことだ。この後には私の事は忘れて、と続くのだろう。そう思って、俺の生き様を彼女が見ていればいいと思って、旅をした。彼女と行きたい場所、彼女に見せたい景色、彼女に会わせたい人。たくさん見つけた。

 

彼女は言っていた。ずっと死にたいと思う人は天性の死にたがりか大切な何かを知らない人だと。そういう事は死ぬ直前に気づくとよく聞く。彼女は気づいただろうか。

 

「片山さん?」

 

あの頃と全く変わらない、やわらかい声で看護師さんに声をかけられた。何故か俺はたまらなくなって、お世話になりましたとだけ言って外に出る。

桜が散っている。彼女と見た桜だ。彼女と歩いた、中庭だ。


「綺麗だな……」


舞い散る花びらに釣られて上を向く。屋上には白いシーツがはためいていた。空は限りなく青くて、遠くて、世界はこんなにも美しい。俺がずっと、生きることを望んでいた世界のはずなのに。


「もう何処にも、お前はいないんやな……」


彼女と見る世界は、いつも綺麗だった。

彼女が持ってきてくれた肉まんは温かかった。食べたいなら食べたらいいと思うよ、と言う彼女に、食事制限なんてものは酷く表面的なものだと感じたから、今まで守り続けてきた制限だって破ったのだ。罪悪感を感じながら彼女と食べる肉まんは今まで食べた何より美味しかった。

秋は一緒に紅葉を見た。彼女と触れた地面は湿っていて座り心地は良くなかったけど、彼女が俺を迎えに来てくれたからもうそれでよかった。

冬は一緒にオルゴールの部品を買いに行った。そこで彼女は、あのオルゴールを見つけてくれたんだ。

春は一緒に桜を見た。中庭のシロツメクサで花冠を作った彼女はそれを頭に乗せて笑っていた。俺の分なんて作らなくてもいいのに、要らないって言ったのに、結局頭に載せられてしまったんだっけ。彼女が作ったものだと思えば特別だと思えた。

夏は一緒に夏祭りに行った。白地に瑠璃色の花が咲く浴衣を着た彼女は、とても綺麗だった。癪だからそんなこと言ってやらなかったけど、でも、今思えば言えるうちに言っておけば良かったと思う。


生きたい、そう強く願うばかりで俺はたくさんのものを見落としていた。彼女はそれを丁寧に、ひとつずつ掬いあげて俺にみせてくれたのだ。


彼女の瞳はいつも澄んでいて、世界を、自分自身を真っ直ぐにみていた。
彼女の笑顔は、まるで花が咲くような笑顔だった。その笑顔は、いつも俺に安らぎをくれた。
彼女はいつも温かくて、俺が泣くと抱きしめてくれた。


俺は、そんな彼女を抱き締め返してやれなかった。
触れることも出来なかった。
車椅子に乗る度に俺を抱えてくれた彼女を、俺も抱えてやりたかった。お姫様抱っこをしてあの中庭を歩いてみたかった。
彼女は俺の前で泣かなかった。俺が泣くから、俺を慰めようと我慢してくれたのかもしれない。
彼女の涙を見てみたかった。きっとそれは真珠のように美しいだろう。そうして溢れ出た雫をぬぐってやりたかった。
いつも俺の手を握りしめてくれるその手を、握り返してみたかった。


もっともっと、一緒にいたかった。何度だって名前を呼びたかった。君のその声で名前を呼んで欲しかった。


俺たちは、四季をたった一周しか出来なかったのだ。


「いちご」


呟いて、喉奥から塩辛い何かがせり上がるような気がした。まぶたの裏がじんわりと滲んで、熱いアスファルトの上に一粒の涙が零れ落ちる。でももう、涙を拭ってくれる彼女はいない。

俺は左手で、自分の胸にかかっているペンダントを握りしめた。ひんやりと冷たいそれは、俺と彼女の間に残された唯一の繋がりだった。風が吹き、幾重にもシーツがはためく。その向こう側に彼女がいてくれたら、俺の瞳から零れ落ちる雨は止んだんだろうか。たまらず、俺はその場に崩れ落ちた。カランと松葉杖が転がって、俺は両手でオルゴールを抱きしめる。


「いちごっ……」


望んだ世界のはずなのに、もう俺に幸せをくれるいちごはいない。いちごがいない世界はこんなにもからっぽだ。俺がずっと願っていた生きるってこういうことだったんだろうか。


「会いたい……あいたいよ、いちご」


アスファルトに落ちた涙の雨は、暫く止む事が無かった。

 

 

 

 

 


看護師さんにろくに挨拶もしなかった事を思い出して、ナースステーションに声を掛けたが、今は挨拶回りで他の病棟に行っているらしい。後30分程で帰ってくるだろうと聞いたので、病棟の中を歩いて回る。

病院の中はあまり変わっていないけれど、ここはもっと昔と変わらない。相変わらず死んだような瞳をした人達が、ただ延命治療を受けて時間を無為に過ごしているだけだ。俺が使っていた病室にも、違う人が入っているのだという。前よりも死の匂いが強くなったかもしれないな、と思いながら歩いていると、一つだけ、扉が開いたままの病室を見つける。中では一人の少女が画板に絵を描いている。俺はその横顔を見て、天啓のような何かを感じた。

ーーーーー見つけた。

コンコン。と病室の扉を形式的にノックして中に入ると、少女は俺をみて驚いたように目を丸くする。そりゃそうだ。全く面識がない人が突然入ってきたら誰だって硬直するだろう。

俺は少女に近づくと、「はじめまして」と言った。少女もおどおどしながら同じ言葉を返す。不安そうな態度をしているが、その子からは強い生への執着を感じた。ぐらぐらと煮えたぎるような強い意志を湛えたその瞳は、過去の誰かさんを見ているようだ。


「唐突な話なんやけど」


俺はひとつ前置きを置いて、緩く微笑んだ。首からかけている白い雫のロケットペンダントが、しゃらりと小さな音を立てる。

 

 


「俺の代わりに生きるつもりはない?」

 

 

 

 

 

春、生きるときまで  終

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

端書

 


彼の話をしましょう。
人生には、分岐点となる箇所がいくつもあり、そこには必ず人がいます。彼は、私の人生の中で大きな分岐点となった人です。

当時私は重い病に罹っておりました。現在でも治療法の見つからない、天命を全うすることなく息絶えてしまう病気です。今でもその日のことをよく覚えています。夏の終わりの、とても暑い日のことです。私の入院していた病棟の人の良い看護師さんが定年退職する日でした。挨拶を済ませた私はその日も絵を描いていて、そこにやって来たのが彼でした。

今まで見たどんな人間よりも、人間離れしたような容姿の人でした。綿毛のような髪と琥珀のような明るい瞳を持った、端正な顔立ちの人でした。

彼は私に、「俺の代わりに生きてみないか?」と尋ねてきました。私は驚きました。彼が、私にEPを持ちかけているのはすぐに分かりましたが、彼と私は初対面です。何故そんなことを言うのかと尋ねると、彼は言いました。


「君はまだ、生きたいと願っている瞳をしている」


違う?と首を傾げてそう言われました。その通りでした。私は、病で死ぬ運命を良しとしていませんでした。まだ見たい世界も、描きたいものも、多くありました。彼は、私の言葉に柔らかく笑いました。何故か、酷く泣きそうな笑みだと思いました。


「俺は、もう満足するだけの世界を見たから、残りは君にあげようと思う」


私は再び尋ねました。どうしてそんなことを言うのかと。彼は見た感じ、そんなに老いているというわけではありません。私の父よりもきっと若いです。まだまだ人生の途中なのに、何故そう思うのかと。
彼は言いました。

 


「人は生きているうちに、一人だけ唯一無二の人に出会えるんよ」

 


自分の半身のような、パズルのピースがぴったりと合うような、コインの裏表のような、対になっている錠前と鍵のような、そういった存在に出会えるのだと彼は言いました。


「俺はその人に会えたことに気づけたから、もういいんだ」


穏やかな口調で彼は言いました。過去を懐かしむように伏せられた瞳と、首からかかっている少し大きなロケットペンダントが印象的だと思いました。